山口 真奈美

「日本語講師も大学院生も120%!」アメリカポートランド大学院留学

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ポートランド州立大学に留学後、現在、医薬品開発支援企業で翻訳業務をされている山口真奈美さん

留学体験談インタビューマガジン留学Person。

今回、ご紹介させていただくのは、山口真奈美さん(やまぐちまなみさん、以下、真奈美さん)です。真奈美さんは、日本の大学を卒業後、アメリカのポートランド州立大学(Portland State University)の大学院に留学し英語教授法の修士号を取得されました。

「英語教師になりたい!」という夢を持ち、日本の大学の英文学科で教員免許を取得された真奈美さんは、その後、ALLEX Foundation(アレックスファンデーション)の奨学金プログラムに合格しアメリカへ。留学中は、大学で日本語講師をしながら、大学院で修士号のコースに通われてました。

真奈美さんが利用された「ALLEX Foundation」の奨学金プログラムは、アメリカの大学で日本語講師をする事で、任期中の授業料と住居費、食費の全額免除が約束されるプログラムです。

今回の記事では、真奈美さんが奨学金プログラムに申し込む事になったストーリー、現地での留学生活、そして留学生活が真奈美さんの今の人生に何をもたらせてくれたかをご紹介します。

⬛︎ 大学で偶然見つけたポスターがきっかけで、大学院留学を決意!現地で日本語講師をする奨学金システムとは!?

–真奈美さん、本日はよろしくお願いします。

はい、よろしくお願いします。

–まず、真奈美さんがどのような留学をされていたかを教えていただけますか?

はい、日本の大学を卒業してすぐに、アメリカのポートランド州立大学に留学し、英語教授法(TESOL)の修士号を取得するコースに通っていました。また、留学中は大学の日本語のクラスの講師も務めていました。つまり、フルタイムの大学院生をやりながら、日本語講師もやっていた事になります。

–留学中に日本語講師も?それはどのような理由で?

はい、私が利用したALLEX Foundationの奨学金プログラムで、学費や生活費が免除になる代わりに、現地の大学で日本語講師をするのがルールでした。それが日本語講師をしていた理由です。

–個人的にアメリカの大学院って「費用の面でハードルが高くて絶対無理!」と思っていたのですが、そのような奨学金制度があるのですね。ちなみに、その奨学金プログラムにチャレンジしようと思われたきっかけはなんだったのでしょうか?

実は、大学を卒業した後に学校で英語の講師になろうとしていたのですが、偶然、大学でポスターを見つけて「えっ、もしかして、私、修士いけちゃう!?」と思って応募しました。大学時代も塾や家庭教師のアルバイトをしていて、教えるのがすごく好きだったので「日本語を教えながら、修士を取れるのってすごくおもしろそう!」とわくわくしてしまいました。今でもそのポスターを見た日の事は今でも鮮明に覚えているくらい印象的な出来事です。

⬛︎ 周りはみんな社会人の方ばかり、そこでの出会いも貴重な体験に

–では、次に、奨学金プログラムについて詳しく教えていただけますでしょうか?具体的にどのような手順で審査は進んで行ったのでしょうか?

はい、私の時の話ですが、まずは、一次で書類審査がありました。就職活動のエントリーシートのような感じです。次に、二次試験で大阪に行き英語と面接の試験が行われ、後日、合否が決まりました。その後に、大学とのマッチングでした。これは、自分のやりたいコースのある大学が、ALLEXからの日本語講師を派遣する先としてあるかどうかを決めるものです。そのマッチングは完了したのが2月です。6月12日に出発だったのですが、それまでの期間で留学準備をしました。

–他に奨学金に応募されていたのも大学を卒業したばかりの方だったのですか?

いや、今でもすごくよく覚えているのですが、本当に色んな方がいてバラエティ豊かでした!看護師やライターの方など。大学を卒業してすぐだったのは2名くらいで、他の人はほぼ社会人でした。そういう環境で、他の方に比べて仕事を辞めてくるとかそういうのではなかったので失うものがない分、面接前は「失敗しても大丈夫!」くらいに開き直る事ができました。中には60代の女性もいたりして、本当に「いくつになっても、なんでもやろうと思えばできるんだ。」と強く感じました。このような出会いも当時の私にとっては本当に貴重な体験でした。

–ちなみに渡米前に日本語講師の経験はあったのでしょうか?

いや、私は英語の教員免許しか持っていなかったので、そのような経験も資格もありませんでした。

–それでいきなり現場に入って大丈夫でしたか?

あっ、それはアメリカに出発したのが6月で、最初、日本語講師をするための研修が8月中旬まであったので大丈夫でした。そこから9月にポートランドに行った感じです。

⬛︎ 「みんなに好かれるわけではない、みんなに好かれなくてもいいかな。」心を強くしてくれた日本語講師としての経験

–日本語のクラスでは、英語で日本語を教えていたのでしょうか?また、どのような事を教えられていたのでしょうか?

いえ、担当した日本語のクラス自体は日本語で行われていました。日本語で日本語を教える感じです。私は日本語の会話のクラスを担当していて、テキストに出てくる日本語のフレーズを引き出すために、どのような授業をするかを事前に考えて授業にのぞみました。後は授業準備として、テキストのフレーズを引き出すための小物を用意していました。

–小物というとどういう物を?

例えば、「大丈夫ですか?」という言葉を引き出すために薬を持って行ったり、「雨ですか?」という会話の練習の時は、傘を持って行ったりなどです。テキストに出てくるフレーズを使えるような物を持っていく感じです。

–生徒はやはり大学生ばかりでしたか?

あっ、それがそうでもなくて。確かに20代の大学生が多かったのですが、10代から60代まで幅広い年代の生徒がいたんです。幅広い年代の人と接した事で、色々な考え方に触れられたのもいい経験でした。ただ、大学を卒業してすぐでしたので、最初、全然先生だと気づいてもらえず「先生はいつ来るんだろうねぇ?」と生徒から話しかけられたりしていました(笑)

–日本語講師をしていて、どのような事が印象的でしたか?

はい、一年目に私は約20人の人を3クラス教えていたのですが、やはり1人か2人くらいは私と相性の悪い人もいて。。。それまでは「自分はみんなに好かれていたい」と思っていたので、23歳の私にはその事がとても辛くて傷ついてしまいました。それを教授に相談したら、「大丈夫よ、まなみ。そういうのにも慣れてきてだんだん、お母さんみたいな気持ちになってくるから」と励ましてもらいました。その言葉通り、だんだん慣れてきて「みんなに好かれるわけではない、みんなに好かれなくてもいいかな」と思えるようになりました。この経験のおかげで自分自身が強くなれたのだと感じます。

⬛︎ 日本語講師と大学院生活の両立「私は本当に教える事がものすごく楽しくて充実していました。」

–では、次に留学中の生活について教えていただけますでしょうか?留学中はどのような1日を過ごされていたのでしょうか?

はい、基本的なルーティンは、朝8時に日本語のクラスで講師をして、その後はフルタイムで修士の授業を2教科ほど受けて、夜の18時から、また日本語講師をしていました。

–朝から晩まで活動しっぱなしですね、授業以外にはどのような事をされていたのでしょうか?

はい、授業が終わると、夜は予習や翌日の授業の準備などに追われる生活でした。大学院の勉強は本当に多くのテキストや課題図書を読まされました。そして、私はネイティブではないので、英語を読むのに当初は4倍くらいの時間がかかっていたので負担は他の生徒より大きく、本当に大変でした。寝るのは26時や27時になってしまう事が普通で、論文の提出日とか寝れない時もありました。朝起きたら「眼が開かない〜!!!」」という夢を留学中繰り返し見ました(笑)このような生活が2年半ほど続いた感じです。

–まさに勉強漬けな留学生活ですね。大学院での授業はどのようなものでしたか?

科目としては、「社会言語学」や「国際文化(異文化間)コミュニケーション」など、様々なものがありました。言語も文法、単語、音声など着目するものが分かれていて、それを少しずつ取っていました。

–授業はディベートスタイル(生徒や先生同士が意見を言い合い進むスタイル)のものもありましたか?

はい、そのスタイルの授業はすごく多かったです。むしろ、ほとんどそういう授業でした。

–日本人はディベートでなかなか発言ができないと聞くのですが真奈美さんはいかがでしたか?

多くの日本人の方と同じで、私もなかなか発言はできなくて大変でした。ただ、教えているのも元々は英語の先生なので、外国学生には慣れていてすごく優く、私に対して「真奈美、日本ではどうなの?」と聞いてくれたりしてくれて、それがすごくうれしかったです。ただ、先生の話している事はついていけたのですが、議論が深くなってくると、その深みについていけないという状況になる事があり、それには苦労しました。

–その他に何か印象的な授業はありましたか?

はい、クラスメイトたちとグループを作ってカフェに集まり、課題図書に対してディスカッションするスタディグループへの参加が私にとって思い出深いです。その授業は課題図書が与えられて、それを事前に読んできて同じグループのメンバー同士で意見を言い合うのものなのですが、私は日本の大学で「意見を持ちながら本を読む」という事を一切していなかったので、ディスカッションで意見を言えないのには困りました。向こうでは、ディスカッションで意見を出さないというのは参加する事に対する責任を果たしていないという事になってしまうので、最初はすごく困りました。他のクラスメイトたちが「私はここのこういう所が嫌いだった。」と、「でも、このフレーズが印象的だった」という意見を言うのを聞いていて、「自分が嫌いだったところ」「好きだったところ」「わからなかったところ」の3カ所を意識して読んでいくようにして、だんだんディスカッションにも慣れて行きました。

–ちなみにクラスメイトはネイティブスピーカーばかりでしたか?

ネイティブの人が多かったのですが、私のような外国人もいました。オレゴンの土地柄アジア人も多く、アメリカで育った中国人移民や私のような留学生の韓国人などもいました。

–夏休みとかはありましたか?

はい、タームごとの休みはきちんとありました。お金があまりなかったので、その時期は日本語コースの夏の集中コースに講師を務めて、少しばかりお金を貯めていたりしました。

–とても厳しそうな留学生活に聞こえるのですが、辛くなかったですか?

うーん、確かに大学院生と日本語講師の両立はきつかったですけど、私は本当に教える事がものすごく楽しくて充実していました。朝に授業したら、充実感が得られて、すごく好きで、それ以外の事をしたいとは思わなくて。お金もあまりなかったですし。

⬛︎ 自分をタフにしてくれた留学生活「あれを乗り越えられた、ほとんどの事は乗り越えられる!」

–では、次に真奈美さんの留学後の生活について教えていただけますでしょうか?

留学後は日本に戻って翻訳会社に入りました。最初の5年間くらいはその仕事を続け、その後に色々と転職して、今は医薬品開発支援企業で副作用報告の翻訳をしています。

–英語の先生になりたいと思って留学したのですよね?先生にならずに翻訳会社に入られたのは何か理由があったのでしょうか?

はい、確かに、留学前の夢は英語の先生になる事でした。ただ、留学中に日本語の講師をやった事で日本語の事も好きになって、留学中はずっと「日本人とは?」という事を考えて過ごしていました。そういう事もあり、英語に対するこだわりが取れたのが自分の選択肢が広くなった理由です。このような背景もあり、「日本語や英語を教える」というこだわりはなくなり、今の仕事をする事を選びました。「もっと言語そのものを深めてみたい」という気持ちがあったのも翻訳会社を選んだ一つの理由です。

–今でも「教えたい」という気持ちはありますか?

はい、もちろん、今でも何かを教えるのが好きです!ただ、今の仕事でも新しい人に何か教えたり、言語を教えるという事に関しても日常的に行っているので、「誰かに何かを教える感」は常に得られているのですごく満足しています。

–留学前の自分と今の自分の変化はありましたか?

はい、留学後は何事にも物怖(ものお)じしなくなりました。「自分の言いたい事はちゃんと言う、自分のやりたい事はやる」という風に。留学前は自分からバンバン自分から何かをするというタイプではなかったのですが、ここは自分がすごく変わった所だと感じます。後、一番大きな変化は「不安を持たなくなった」という事です。やはり、留学中はすごい大変だったので「あの頃より大変な事はないだろう、あれを乗り越えたからほとんどの事は乗り越えていけるんじゃないかなぁ」と思うようになって。なので、今は新しい環境に入る事にほとんど不安を感じなくなりました。適応力がついたのだと思います。

–日本語講師と大学院生を両方とも体験できたわけですが、普通の留学との違いは何か感じますか?

はい、ALLEXのプログラムを使っていったおかげで「社会的な責任の一端を担う」という事が自分の中ではすごくよかったです。留学生としての立場だけではなく、社会的に責任ある立場でやり遂げたのが自分の中で大きな自信につながりました。

–お話伺っていて、強く感じたのですが、真奈美さんは本当に留学を通してすごく強くなったんですね!

はい、そう思います、今思い返すと本当に強くなれたと思います。奨学金の規定で、大学院の成績も一定以上をキープしなければいけなかったのと、アメリカの大学はタームごとに生徒から評価を受けなければいけないので、どちらもおろそかにできなかったので、どちらも120%のパワーでこなされなければいけないというのが自分をタフにしてくれました。本当に大変でしたが、素敵なプログラムなので、ぜひ多くの方にチャレンジしてほしいと思います!

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